茶が産業として発展するようになったのは、安政6年(1859年)横浜港が開港され、その年181トンの緑茶が輸出されたことに始まります。
明治初期、お茶(緑茶)は生糸と並び最も重要な輸出品であり、日本の近代化と発展を支えていました。この時期には国内で出来るお茶(緑茶)の約80%が輸出に向けられており、明治元年(1868年)の茶(緑茶)の輸出量は6,069トンであり、初めての輸出からわずかに10年で驚異的な躍進を遂げています。
明治政府はこのことから富国のため茶業振興に力を注ぐことになり、大久保利通は内務省勧業寮農務課に製茶掛を設けました。当時の海外販路は殆どアメリカであり、緑茶を嗜好するのはアメリカのみで、他の国々は中国風の紅茶を嗜好していました。
そこで世界に向けては緑茶より紅茶に希望が持てるとのことから、次々と紅茶生産の施策が打ち出されました。
明治7年(1874年)紅茶製法書を編集し、各府県に配布、紅茶の製造を奨励しました。翌年、明治政府は中国から二人の技術者を呼んで教師とし、九州、四国の山茶の多くある地を選び、熊本県山鹿と大分県木浦等で中国式の紅茶製造に着手しました。
この年、政府は多田元吉を勧業寮に登用します。多田元吉は徳川家の家臣でありましたが、時代が変わり、静岡市の丸子に移り住み茶園の開墾を手がけたことから、お茶に関わりを持つようになりました。
この年の11月、政府派遣の紅茶の調査員として試作の紅茶を携行し中国に出向きましたが、好評は得られず、製法が不適当であることがわかりました。多田は江西、湖北の著名な紅茶産地において製造法を調査、さらに他茶産地を訪ね栽培、製造の調査を行うと同時に必要な諸機器、多くの茶の種子を購入、翌9年2月に帰国、新宿試験場内にこれを播種し、栽培を始めました。
当時勧業寮富田冬三らが米国サンフランシスコへ渡航中、東インド在留のイギリス領事より、アッサム地方の製茶事業は非常に進んでおり、蒸気機械を使用、一日数万斤の紅茶を生産するとの情報を得たので、同年3月、勧業頭は直ちに製造法及び栽培法の視察員として、多田元吉(栽培、製茶法)、石川正竜(機械)、梅浦精一(商業、通訳)の3名をインドに派遣します。カルカッタよりヒマラヤ山脈のダージリン、カシャール、アッサム、その他著名産地を調査、使用機器のスケッチ、製造、栽培、経営調査、茶の種子及び見本茶の収集を行いました。
多田は帰途、再び中国の広東、福建、江蘇、浙江省の茶業の調査研究を行い、多くの見本茶を収集し、翌10年2月に帰国しました。このときインドより携帯した茶の種子は東京新宿試験場及び静岡、三重、愛知、滋賀、京都、高知などの府県に配布、試植されました。
明治10年(1877年)、勧農局は多田元吉、熊谷義一を高知県下に派遣、山野自生の茶葉を用い、インド式製法により試製、横浜市場及び英国に試売の結果、大いに好評を得、また各国での鑑定もおおむね良好だったので、その製法を全国の製造者に伝えて増産することを決めました。明治11年(1878年)内務省は紅茶製造伝習規則を発布、多田は高知、静岡、三重、滋賀、福岡、熊本、大分、長崎、鹿児島の諸県に出張し、紅茶の製造を指導、その後製造技術が進歩、普及したことは多田の功績であります。
その後、紅茶奨励策の効果が出始め、九州や四国を中心に50トンほどが作られるようになり、さらに生産量は徐々に増加し、明治25年頃(1892年頃)には150トン程が生産されるようになり、輸出も順調に伸びていきました。
この頃の国産紅茶はまだ山野自生の茶葉で作られていたこともあり、品質が良いとは言えず、このため世界市場ではインドやスリランカの影響を強く受けざるを得ませんでした。特に明治27年(1894年)の日清戦争、明治37年(1904年)の日露戦争で日本が戦っている間にインド、スリランカ、ジャワなどの紅茶が日本の紅茶の市場に参入し、日本の紅茶の輸出は減少し、生産も減少しています。
逆に、昭和4年(1929年)ニューヨークのウォール街に始まった大恐慌のあおりで、ロンドンでの紅茶取引価格が暴落し、インド、スリランカ、ジャワの茶業者が輸出制限を実施した時には、日本の紅茶の需要が増加し、昭和8年(1933年)には39トンの輸出が、9年には859トン、同10年には2,265トン、同12年には6,350トンという空前の輸出量を記録したが、中国との事変の拡大に伴い減産を余儀なくされました。
昭和20年(1945年)、第2次世界大戦によって紅茶輸出量は130トン程度にまで落ち込みましたが、戦後の復興とともに茶産業は急速に盛り返していきました。昭和28年(1953年)には品種登録制度が始まり、紅茶用品種としては茶農林一号である「べにほまれ」をはじめ「いんど」、「はつもみじ」、「べにたちわせ」などが登録されました。昭和26年(1951年)これらの品種はロンドンの市場にサンプルが送られ、非常に高い評価を受けています。
昭和29年(1954年)紅茶生産は7,210トン、翌30年は8,525トンもの生産を挙げるまでになり、そのうち5,181トンを輸出するまでに回復しました。また政府は昭和34年(1959年)に紅茶用の品種茶園10,000ヘクタールの造成計画をたて、紅茶の100%自給を目指しました。しかし日本経済が高度成長するに伴い、価格競争力を失い、インドやスリランカなどの紅茶との国際競争において価格面で不利が拡大し、紅茶の産業化推進は中止を余儀なくされました。これにより日本の茶は国内消費向けの緑茶生産に切り替えられたのでした。その後昭和44年(1969年)に登録された「べにひかりは」耐寒性が強く、そのさっぱりとした味わいは日本人の嗜好に合うと期待されましたが、普及することはなく幻の品種と言われています。
昭和46年(1971年)、紅茶輸入自由化以降、国産紅茶は地場消費用にごく少量が生産されるだけの状態が続きましたが、近年、紅茶生産を始める茶業農家が増え始めています。平成5年(1993 年)登録された「べにふうき」は華やかな香りを持ち、「べにほまれ」や「べにひかり」とともに国産の高品質紅茶用品種として期待されています。
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