有田窯に景徳鎮の技術が導入され、ヨーロッパへ輸出の道が開かれました。

 16世紀、大航海時代に入り、ポルトガル人によって中国や日本の喫茶文化がヨーロッパに紹介されるようになりました。当時のヨーロッパは、磁器の世界では遅れており、中国の白くて薄く、しかも丈夫な磁器は人工の宝石として全ヨーロッパの王侯貴族を虜にしました。中国では、すでに6世紀後半、華北地方で白い磁器が作られており、隋の時代には本格的な生産がされていました。日本では1616年朝鮮の陶工・李参平が有田の泉山で白磁鉱を発見し本格的に磁器の焼成が始まります。

17世紀に入ると、ポルトガルの後、オランダが主導権を握り、オランダ東インド会社が中国磁器を一手に輸入していました。ところが、しばらくして中国が明朝から清朝への政権交代の混乱期となり、中国磁器が入手しづらくなったオランダは日本に目を向け始める事になります。オランダによりこの有田窯に、中国明末の景徳鎮の技術や文様が導入され、同時にヨーロッパへの輸出の道が開かれることになります。この当時の絵柄や技術が「古伊万里」や「柿右衛門様式」として今日に伝えられているのです。オランダへ積み出された港が伊万里港だったので、有田窯で焼かれた白磁製品は通称伊万里焼と呼ばれました。

こうして17世紀半ばより、伊万里焼はヨーロッパへ渡り、当時ヨーロッパの王侯貴族の間で流行の「シノワズリー(chinoiserie)」「ジャポニズム(japonism)」という中国趣味の磁器製品の中に加わり、彼らの富と権力の象徴としてこぞって収集されたのです。ヨーロッパ人にとっては中国も日本も区別がつきにくかった時代のことでした。
1709年、ヨーロッパではドイツのマイセン窯が、初めて白い硬質磁器の製造に成功しました。錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベトガー(1682〜1719)がカオリンを用いて、1400℃で焼成したものでした。

イギリスでは、ジョサイア・ウェッジウッドが、1765年に日常食器としてクリームウェアという硬質磁器を完成しましたが、まだ白い磁器はできませんでした。そこへ、1768年プリマス窯が初めて白磁器を製造し、続いてスポート窯により牛の骨灰を入れた「ボーンチャイナ」が工業化され、19世紀初頭には製品として売り出されるようになりました。
ボーンチャイナは、磁器に比べ強度があり丈夫なうえ、繊細で優美な形が作れるほど薄く白いので、色彩も鮮やかに美しく出ます。それまでは高価な輸入品に頼っていたイギリスにとって、ことに紅茶の世界では大変意義のあるものとなりました。

カオリン(kaolin)
陶磁器素地の3主原料の一つ。長石類岩石の風化によって生ずる粘土鉱物であるカオリナイトを主成分とする。色白く耐火度が高く、中国・江西省の景徳鎮産の高級陶磁器の原料産地である高嶺(kaoling)に由来する。高嶺土、高陵土とも書く。